第7回 47歳で管理栄養士目指す

読売新聞「シリーズ元気」(2003.02.13)より転載


「管理栄養士の資格をお取りなさい」。料理写真家の佐伯義勝は村上祥子に何度も助言した。
管理栄養士は国家資格。病気治療のための栄養指導や、健康的な食生活をアドバイスする。
おいしい、見た目がきれい、作り方が簡単だけでは料理は完成しない。佐伯は「料理の仕事を一層飛躍させるために必要な資格」と、村上を口説いた。
ちょうどそのころ、夫の転勤で、村上は北九州で暮らし始めたところだった。
多少は時間の余裕もできていたが、気乗りがしなかった。年子の三人の子どもが受験期を迎えていた。毎年、受験生を抱え、「家に受験生は一人でたくさん」。そんな思いだった。
ようやく管理栄養士を目指したのは、四十七歳のとき。末っ子が大学に入学し、受験生がいなくなったこともあるが、「意地で受けたようなところがあった」と言う。
人間の体や栄養のことで、分からないことをそのままにしてきたことが気になっていた。
村上は、母校の福岡女子大で非常勤講師として教壇に立っていたが、若い学生には理詰めで説明しないと納得してもらえないと感じていた。
そのためにも系統的に勉強しようと思い立った。
試験は、病理学、食品衛生学など十三科目。試験のための講習会では、同僚の教師たちを講師に、教え子と机を並べて勉強した。
だが、家にいれば電話も鳴るし、食事の支度もしなければならない。
試験前、十日間だけと決めて自宅近くのホテルに缶詰めになって勉強した。「ヤギが紙を食べるようにして、内容を頭にたたき込みました」
そのかわり、夕食の時間になると、夫とおいしいものを食べに出かけた。
おかげで試験後には、痛風というおまけが付いてきた。 昔から勉強にはわりと自信があった村上だが、「このときばかりは自信が持てなかった」と言う。
マークシート方式の試験など初めてで、試験後に息子に「回答欄を一つずらして書かなかっただろうね」と言われ、ぎょっとして青くなった。
不安で発表を見に行けなかった。新聞で見た夫が合格を知らせてくれた時は、ほっとした。

三十代後半から続いていた心身の不調、東京での仕事をあきらめて九州に引っ込んだという思い-。
気分が落ち込んだこともあったが、勉強をやり直した意味は大きかった。
自分の考えを理論立てて説明できるようになったし、仕事の幅も広がった。
資格取得後すぐに、糖尿病の食事の本をまとめた。村上の関心は、料理の作り方そのものよりも、「食べ方」へと移っていった。(敬称略)
(生活情報部・小坂佳子・読売新聞より転載)

写真=夫の啓助は、一番身近な村上の“応援団”だ(1980年ごろ)
(第8回へ続く)