週刊女性 人間ドキュメント「すたこらさっちゃん」奮闘記。


料理研究家 村上祥子さん(72歳)
料理研究家として40年以上の長いキャリアを持つが、大ブレイクを果たしたのは50歳を過ぎてから。ご主人と暮らす九州を拠点に全国を精力的に飛び回り、「空飛ぶ料理研究家」のニックネームも!そして今、日本に正しい“食”を取り戻す活動を―

 それは1971年、彼女が29歳のときのことだった。
 九州は大分市の体育館で、家電フェアが開かれた。展示の目玉は『電子レンジ』。
〝スイッチポン!〟。それだけで、どんな食材もたちどころに温めてくれるという。
 同じ九州は福岡の、瀟洒な家が建ち並ぶ住宅街のなかにある料理教室の一室で、彼女が当時を振り返って言う。 
「お隣の奥さんが、〝実家に帰ったら電子レンジがあってそれがいいのよ〟とおっしゃったの。それで家電フェアに行ったんです」
 今では見慣れた電子レンジも、当時は新顔で高価。フェアではセールスマンたちが盛んに売り込みを図っていた。
〝奥さん、電子レンジならなんでもあっという間にできちゃうよ!〟
 もともと好奇心とエネルギーの固まりのような性格である。ホントかどうか試そうと、飛んで帰って4人分は優にある冷凍のグラタンを持参、熱くしてくれるよう頼み込んだ。だが30分かかっても熱くならない。
「これなら湯煎してオーブンで加熱したほうが早い。それで買わないで帰ったんです」
 〝家からわざわざグラタンを持ってきたあの女性は一体誰だ?〟フェアの業者たちのなかで、話題となったらしい。
「そうしたら自宅まで見えて、〝大幅に値引きしますから、買ってくれませんか? そのかわり使い方の情報を教えてください〟と言われたんです」
 この家電フェアに行ったことで、その後の彼女の人生は大きく変わり、日本の働く女性たちの料理もまた変わった。
 彼女は村上祥子さん(72歳)。
 主婦が働く時代に先駆けて電子レンジを駆使しての時短料理を発表し、一挙にメジャー料理研究家へと駆け上がる。
   メタボや糖尿病が問題になると、血糖値を下げる〝たまねぎ氷〟で〝健康料理なら村上祥子〟の評価を獲得、本年はその改良版、〝にんにくジャム〟で勝負を賭ける。
 著書の数はギネス級で、263冊643万部(2014年3月現在)を突破した。
 取材当日は毎月開催される『村上祥子の料理教室in福岡』の初日。料理教室の生徒の一人、宮崎市からやって来た栄養士の堤睦子さん(49)が言う。
「栄養士から見ても、今日の料理は百点満点。さすが村上先生、簡単なだけでなく栄養的に、きちんと考えられた料理だと思います」
 手早く作れる合理性を絶賛するのは、母親を介護中でありながらに毎食甥と姪の食事も作っている江藤直美さん(46)。
「料理教室のレシピの中身がクルクル変わるの。〝こうしたほうがもっといい〟〝手間が省ける〟と、日々進化していくんです。それが理にかなっていて、忙しい女性に最適なんです。料理の神様に愛されている人、それが村上先生」
 そして誰もが口を揃えて絶賛するのが、この人のバイタリティーあふれる生き方だ。
 かつて村上さんの東京オフィスのスタッフとしてもっとも多忙だった時代を支えたという長田やすこさん(48)は、「とにかくお元気。どこかにバッテリーがついているんだと思います(笑い)。常に時代の先を行くのがすごい」  もともとは二男一女を持つ専業主婦。料理研究家としてのブレイクもくだんの電子レンジ調理法で、54歳と超遅咲きであった──。


家族の「喜ぶ顔」が見たくて
「父が出征していた間は、私は疎開先の亡くなった祖父が建てた別荘で、祖母と母、私と妹の女ばかりで暮らしていました。私がお料理と呼べるようなものを作ったのは7つぐらい、小学校1年か2年生の頃でしたね」
 5歳ですでにお使いに行き、いい物ばかりを選んでは周囲の大人を驚かせていたというが、そんなしっかり者に育った背景には、慶応の経済学部を卒業後、実家所有の不動産を管理しながら趣味の絵を描く風流人、父・大島虎雄氏と、母・正子さんの存在があった。
「母はとても素敵なモダンガール。戦後すぐ、女性に参政権が与えられたころ、選挙の立会演説会があると手を挙げて、堂々と意見を開陳するような人だったそうです。
 清潔で、言っていることは正しいんでしょうけど、空気の読めないようなところがあったようです(笑い)」
 まだ幼い村上さんがジャガイモ入りのオムレツを作ったときのことだった。
 一口食べると正子さんは「すごくまずいわ」と一言。村上さん心づくしのオムレツには見向きもせずに、梅干しと海苔でさっさと食事を済ませてしまったという。
「一言でもほめてくれたらいいんですけど容赦はない。幼な心に、料理はおいしくなければいけないんだと身にしみました。でもそうこうするうちに、たいがいの料理は作れるようになっていましたね」
 中学のころ、現在の信念にも通じる状況に遭遇する。
 戦後、人からのすすめもあって現在の北九州市八幡東区に画材店を開いた両親だったが、考え方の違いからいさかいが絶えない状態になっていた。
「そんな二人が食事中にぶつかって、いさかいが始まるから茶碗が飛ぶ、飛んだ茶碗が母の指輪にぶつかって割れて、私が必死に止めに入る」
 〝こんな家にはいられません!〟荷物をまとめた母のあとを、唐草模様の風呂敷包みを抱えた心配顔の村上さんがつき従う。こうしたことが、年に何回もあったという。 「だから家族のご飯は一生懸命作りました。母のことも父のことも大好きですから、なんとか喜ばせたかったんです」
 村上さんはしばしば言う 『食べること、食べさせることは、人をつなぐ一番の作業』
 信念ともいえるこの言葉は、幼いころの、こうした背景があればこそのものだった。

「私って、たじろがないの」
 一見、なに不自由なく見えながら、内情は複雑。
 そんな状況が感受性豊かな中学生にどれほどの影響を与えたかは想像に難くない。
「なにはともあれ、自己責任で人生を進んでいこうという覚悟ができました。仲むつまじい両親だったら、今の私はなかったかもしれませんね」
 両親の不仲がどうにか収まりつつあった高校生のころ、恩師からぴったりのニックネームを拝領することになる。
「事務作業を頼まれると、なにを頼んでもすぐに片づく。それで、〝すたこらさっちゃん〟というニックネームを頂戴しました(笑い)」
 大学は地元福岡の女子大の家政学部に進学。食物学を専攻した。だが就職に関しては、意外にして大胆、それでいながらこの人らしい行動を取る。
「アメリカの大学に留学される先生が多かったんですが、お話をお聞きすると、アメリカでは栄養士がドクターと対等に仕事をしているらしいと。〝そういうふうであったらいいなあ、だったら日本を脱出しよう〟。それは真剣に思いましたね」
 いざ就職となり、村上さんが大学の就職課で見つけたのは世界で始めてレジスターを開発したアメリカのコンピュータ会社『NCR』。家政科でなく英文科生徒が対象で、願書を学生課に持参したその日が試験日に変更。そんなことでくじけるような人じゃない。
 髪振り乱して特急電車に飛び乗って、北九州の小倉にあった試験会場へ向かう。その前に母・正子さんに電話をすると、会社に直談判で、試験を受けられるようにしてくれた。
「試験会場についたらみんなが試験が終わって出てくるところ。同じ大学の英文科の学生を見つけて、〝悪いけど鉛筆と消しゴム貸して!〟。
 それで私一人、試験を受けたら学科で通って最後の5人に。面接までこぎ着けました。
 私、なんでもそうなんです。〝ダメでもともと〟と考えて、たじろがないの(笑い)」
 鉛筆と消しゴムを貸してくれた友人を差し置いて『NCR』に見事合格。
 それなのに村上さんは、在学中に婚約した大手製鉄会社勤務の村上啓助さんの意見に従い、会社に辞退願いを出したのだ!
「啓助さんが〝きみにキャリアをつけるために会社は300万円ぐらい投資するけど、それを回収するためにはかくかくしかじか、これくらいの期間勤めないと〟。ようするにこれは、私に家にいてほしいんだろうと思ったんです」
 アメリカ行きの夢を捨て、自立への思いを捨てて、1964年、22歳で永久就職、専業主婦の道へ。
「惜しいとは思いませんでした。やっぱり一人で行くよりも、相方(夫)を手に入れようと思ったんですね。
 ウチのスタッフに言わせると、私、〝あの時、こうすればよかった〟と言ったことは、ただの一度もないみたい」
 そしてちょっぴりお茶目にこう加えた。
「まあ、心の中で後悔したことはありますけどね(笑い)」

外人妻に「日本食」を伝授!
 若奥さんとして北九州市にあった社宅に入居、専業主婦に収まった村上さんだったが、たちまちその生活に退屈した。
 おまけに夫・啓助さんが東京で学ぶ妹を援助、仕送りしていたために自分の小づかいもままならない。
「結婚してわかったの。お結納金も仲人さんが立て替えて、指輪も上司夫人が出入りの宝石屋さんにツケで売ってもらっていた(笑い)。
〝これは本当にお金がないんだ。自分の雑誌代ぐらいは稼がなくちゃ〟と思ったんです」
 腕に自信はなかったものの、音楽教室のピアノ講師の職につく。そこで講習を受けつつ、ピアノを教える技術と実力を身につけた。
「イミテーションでインチキだったと思いますけど、やってるうちにだんだん本物らしくなるんです。その手ですよ、私は。料理の先生もそうです。あとから付け足しで勉強していくの(笑い)」
 今につながる転機は、1968年26歳のとき、啓助さんの転勤で転居した中野坂上の社宅でのことだった。
 啓助さんの親友がアンさんというアメリカ人女性と結婚、隣あった社宅で暮らしていた。
「私がとろろ汁を作ると、隣のアパートですから階段をピューと上がって届けてあげた。するとアンさんが〝夫がとても喜んだからお誕生日に作ってあげたい〟。
〝だったら材料を揃えておくから、ウチに来て〟。私の料理教室はそんな感じで始まりましたね」
 そうしてアンさん一人から始まった料理教室が、思わぬ反響を呼んでいく。
 村上さんの指導で日本料理の腕を上げたアンさんが、仲のいい外国人妻たちに自慢。
すると彼女たちから、〝習いたい〟という声が続出したのだ。『食は人をつなぐ一番の作業』だったのだ。
 アパートは料理を習いに来た外国人妻12人であふれかえった。アメリカ人もいればオーストラリアからの女性、ドイツ人女性も。
 当時すでに子どもは3人。
「やはり子どもが3人いるピアノの先生を捜してそこに預けて。その代わり、彼女がピアノを教える時には私が3人の子どもを預かりました。
計6人、上から4・3・2・2・1・0歳を、小田急ハルクで買ってきた大テーブルに座らせて(笑い)」
 そんな綱渡りのようなやりくりで行っていた国際色豊かな教室も、啓助さんの転勤でわずか1年で終了。1970年、28歳で大分に転居する。
 冒頭の電子レンジとの出会いもこの時代のことだった。
 思わぬ経緯から電子レンジを手に入れた村上さんは、その使い方の実験に没頭する。
 参考はアメリカから取り寄せた料理本の電子レンジ料理のページ。それゆえ食卓に並ぶのは、イヤでも試作品のアメリカナイズされた料理ばかりとなってしまった。
「主人から〝きちんとした日本料理を食べたい!〟と怒られました。〝電子レンジなんか捨ててしまえ!〟と言われたような気もしますねえ」
   だがこれが契機となり、食材を温めるだけに留まらず、ダシを取り、煮物を作り、パン生地を発酵する、鍋やフライパンと同じ〝調理器具としての電子レンジ〟となって花開いていく。
 後年、出版社から乞われ、村上祥子作の電子レンジ料理本が続々と発売、出るわ出るわその数235冊を数えたというが、多くの働く女性たちからの熱い支持は、当初の失敗あればこそのものだったのだ。
 そして1974年32歳のとき、雑誌『ミセス』でふと見つけた料理コンテストで、村上さんの人生は劇的に変貌を遂げていく。

思わず涙がこぼれた「旅立ち」
 それはアメリカ・カリフォルニア州に本社のあるアーモンド会社が行うもので、アーモンドを使った料理レシピを考案し、カラー写真で撮影して応募するというものだった。
 その最終選考進出の際のことを、村上さんは今も鮮明に覚えている。
「亭主の東京転勤が決まり、その荷物をまとめているときに電話が鳴ったの。
〝決勝に残りましたよ。東京の本選に来てください〟
 なんてラッキーと思いました。この電話はあと数時間で切れるところだったから」
 豚バラ肉をパイナップルジュースで煮込み、牛乳とアーモンドで作ったクリームソースをかけた『ポーク・ハワイアン アーモンドクリーム添え』は見事優勝、グランプリに輝いた。
 マスコミデビューを飾ったのも、同じく雑誌『ミセス』で、翌年33歳のときだった。
「豪華版の料理でなくて、主婦寄りの料理を作れる人をちょうど探していたんでしょうね。編集部の方が落合の家にアーモンドコンテストのご褒美のアメリカ旅行からもどった祝いに見えたとき、ラーメンを作ってお出しした。それが企画に通ったんです」
 1975年ミセス2月号に、『わが家のラーメン作り』というタイトルで雑誌デビュー。あとはもうトントン拍子で進んでいった。
 翌年には〝料理記者歴40年〟で有名な岸朝子氏率いる『栄養と料理』にレギュラーページを獲得した。
 座して仕事を待つだけでなく、自分からアタックもした。
 新聞に圧力鍋の広告を見つけたときには販売元にみずから電話。「料理があると主婦のハートをつかみますよ」とセールスし、広告の料理の仕事をゲットした。
 ところが料理研究家としてまさにこれからという1980年38歳の年、夫・啓助さんが東京からまたまた北九州に転勤。すべてを整理し、主婦一筋に戻ることを決意する。
「料理スタジオをかねて建てた成城の家を出るときは思わず涙がこぼれました。ですが家のなかに二人天下はいりませんしね。夫について行こうと思ったんです」
 そんな出来事からずっとあと、大学時代から村上さんのもとでバイトをしてその後スタッフになり、その人柄を直に知る山下圭子さん(41)が言っている。
「いつだったか先生がおっしゃったことがありましたね。〝食物は人を喜ばせ、優しくさせるの。だから作るの〟」20年来の弟子である山下さんの手帳には、心に残った言葉を書き留めた「村上語録」が残っている。
 料理は人を悲しませるものでなく、喜ばせ、そして優しくさせるもの。〝人気料理研究家であるよりも、家庭と家族の幸せが一番〟
 それが村上さんのポリシーだったのである。

18本もの「抜歯」で得たもの
 涙を呑んで東京の成城から北九州に転居した村上さんを、さらなる試練が襲いかかる。
 それは1982年、40歳のときのことだった。  「梅干しの種を割ってなかを食べるのが趣味だったの(笑い)。
ある日それをしたら、頭蓋骨が割れたかと思ったぐらい、あごにすごい痛みが走ったんです。顔がどんどん腫れて熱が出て、頭がぐらぐら」
 あろうことか口の中の病である。味を見、しゃべることが不可欠の料理研究家としては致命的。オマケに子ども3人を抱える主婦とあっては療養に専念することすらままならない。不安とすさまじい痛みのなか、それでも病院のベッドで配付資料を作り、退院したその足で材料の買い出しをしては教室を続けたという。
  ありとあらゆる病院で50回以上の検査を受けて、顎骨の慢性骨髄炎と判明した。20代のときに抜歯した親知らずの処置が甘く、骨のなかの骨髄が化膿してしまっていたのである。
 完治までには4年の歳月と計18本を抜歯して8回もの手術が必要だった。
「そのときしみじみ思ったんです。慢性骨髄炎のように外科的なことは手術を受ければ治まる。ところが内科的なものは、食べ物でしか対応できないものなんだと」
 病気がきっかけとなっての新境地開眼はさらに続いた。
 それは手術後のことだった。 人一倍食べることが好きなのに、食の楽しみといえば流動食のみ。みかねた啓助さんが生ハムを差し入れてくれた。
「塩気が傷にしみましたが、そのうま味にしびれるような幸せが甦えりました。それで〝ちゃんと食べて、ちゃんと生きる〟ということがひらめいたんです」
 以降、村上さんの〝食〟は、私生活もその著作も一転、今につながるおいしさと健康を両立させたものになっていく。
 1985年43歳のときには初の単行本となる『私の家事マル秘ノート』を出版。気がつけば、福岡の教室では150名もの生徒を抱える身となっていた。
 そして1996年、54歳のときに、村上祥子といえばこれという代表作を発表する。講談社から発売された『電子レンジに夢中』がそれである。
「講談社の担当者に、〝西日本新聞で『電子レンジでサチコ流』を書いているでしょう?ダシを取る、コメを炊くなど、電子レンジで作る普通の料理が書いてある。雇用機会均等法の時代、これは絶対に当たります。石油の鉱脈を探し当てたようなものですよ〟と言われたんです」

「空飛ぶ亭主」がサポート!
 それ以降の活躍ぶりは、テレビ等でご存じの方も多いだろう。
 各種料理本の発表はもちろん、日本の食を正そうと〝食べることは生きること〟をテーマにして、一汁二菜の大切さを日本中に講演して回る。
 〝空飛ぶ料理研究家〟のニックネームは、撮影と講演で多いときには1日3回、週20本という飛行機の予約の多さに航空会社がびっくり仰天、問い合わせが来たことから付いたものだ。
 2012年、70歳のときにはカロリー制限が常だった糖尿病の人たちになんとかおいしく食べて欲しいと考案したたまねぎ氷が大ヒットした。
 たまねぎを電子レンジで加熱して水を加え、ミキサーにかける。トロトロになるまで回したら、製氷皿に入れ、凍らせる。
 製氷皿から出せば1個わずか25gほど。これを1日に2個、ジュースや味噌汁、炒め物に使うだけで驚くほどの健康効果が期待できる。
たまねぎの4つの成分イソアリイン、グルタチオン、ケルセチン、オリゴ糖が相乗効果で血糖を撃退し、糖尿病が劇的に改善するのだ。
 これには健康に敏感な人たちを始め、もともと食いしん坊で美食家が多いという糖尿病の人たちが文字通り食いついた。
「正直、予想もしなかったほどの反響でした。出版社の『家の光協会』に提案して書籍化すると、続けてアスコム、永岡書店、主婦と生活社と次々の依頼が舞い込んで……。まさに出版ラッシュといった感がありました」
 この2014年はたまねぎ氷を改良発展させたという、〝にんにくジャム〟が、早くも話題となっている。
「高血圧が劇的によくなったという長距離トラックの運転手さんから、〝たまねぎ氷〟を持ち運びたいと問い合わせをいただきまして。それでにんにくとたまねぎをジャム状にしたんです」
 72歳、その細い身体のどこにそんなバイタリティーが隠れているのか不思議だが、本人はいたって元気。料理を通じて伝えたいこと、やりたいことが山とある。
 大テーブルに座らせながら育て上げた3人の子ども達もとうに独立。自称、〝啓助ATM〟として物心ともに妻を支えた啓助さんは退社を機に攻守逆転。経理を担当するだけでなく重要な契約の際にはしばし上京、〝空飛ぶ亭主〟として村上さんをサポートしている。
 頼もしい〝内助の功〟を得、心はすでに次に行っている。
 これからのターゲットは、高齢ニッポンそのものだ。
「糖尿病予備軍や認知症の人に、そうならない方法を伝え、おいしい介護食の作り方を教えていきたい。それがこれからのテーマかな……」
 日本中、いや世界中の人々に、〝ちゃんと食べて、ちゃんと生きて〟もらうために。
 すこらさっちゃん、今日もまたまた空を飛ぶ──。