空飛ぶ料理研究家の使命は「食べ力」を養うこと
中央公論新社刊「婦人公論」2003年11月7日号
「女が幸せに働くためのヒント」より転載(中央公論社の許可なく転用はできません)
遅咲きの情熱とともに空飛ぶ料理研究家の使命は「食べ力」を養うこと
「おいしいものを見せびらかして作る」のではなく、
「ちゃんと食べてちゃんと生きる」という当たり前のことを、多くの人に伝えたい
母親を喜ばせたい一心で
料理研究家・村上祥子。
東京と福岡に料理教室を持ち、毎週、飛行機で往復していることから、「空飛ぶ料理研究家」を自称する。
手早く作れる料理にファンが多く、雑誌、テレビ、講演、商品開発、大学講師・・・と引っ張りだこの毎日を送るが、マスコミに本格的に登場したのは53歳という遅咲き。
電子レンジを使ったパン作りの本が注目されたことがきっかけだった。
本格デビューまでは主婦業優先の生活だった。
夫は製鉄会社に勤務するサラリーマン。
東京-九州間の16回の転勤に同行する日々、腰を据えて自らの仕事に専念することはできなかった。
やがて3人の子どもが巣立ち、互いの親を看取り、夫が定年退職という時期に。
ここから村上さんの料理研究家としての挑戦が始まることになる。
しめた!これで東京へ出られる、と思いました。
料理研究家として勝負に出たい、と。
福岡にはつい終のすみか住処にすべき家はあるけれど、東京を根城に仕事をしない限り、私は単なる料理好きのオバサンで終わってしまう。
福岡在住の私に、東京の出版社やテレビ局がわざわざ仕事をくれるはずがないですから。
その胸の内を夫に明かしたところ、「いつかはこうなるんじゃないかなと思っていたよ。
君のやりたいようにやりなさい」と背中を押してくれました。
ただ、同世代の親友は大反対でした。
マンションを借りて料理スタジオに改造するために、私の貯金を全部つぎこむつもりだと話したら、「悪いこと言わないからやめたほうがいいわよ。
そんなお金があれば、福岡でこれから優雅に暮らせるじゃないの」と引き止められました。
でも私は、悩むことも迷うことも一切なし。
東京の不動産屋で西麻布の物件を探し、パッと決めてしまいました。
とはいうものの、仕事にすぐに結びつくような強力なコネがあったわけではないんです。
投資金額に見合うだけの仕事がくるかどうかの保証はゼロ、まったくの未知数でした。
私の思いはただ一つ。
マスコミを通じて、多くの人に「食は命である」ことを伝えたい。
「健康な食べ方とは何か」を広めたい。
そのあふれる思いにつきうごかされての東京進出だったのです。
料理を作り始めたのは、5、6歳の頃。体の弱かった母親を喜ばせたい一心でした。
井戸から水を汲み、七輪の火をおこし、髪の毛をチリチリに焦がしながら、魚を焼いたり、揚げ物をしたり、蒸し器でご飯を蒸したり・・・。
お手伝いのおばさんたちが台所でやることを見様見真似で覚えていきました。
東京生まれの母は、自分ではほとんど料理はしないのに、舌が肥えていて、子供といえども相当に手厳しかった。
「あなたは食欲があるからいいでしょうけど、すごくまずい。
祥子、悪いけど、焼き海苔出して」と何度言われたことか。
一言誉めてくれたらいいのに、と思いますが、容赦はない。
幼心に、料理はおいしくなければいけないんだと身にしみました。
そうこうするうちに、中学生頃までには、たいがいの料理は作れるようになっていたと思います。
大学卒業を間近にして、結婚を決めました。
アメリカ系コンピュータ会社の入社試験という狭き門を通り、キャリアウーマンの道まっしぐらの予定でした。
それが、就職が決まった後に夫と出会い、永久就職も悪くないかな・・・と思ったのです。
当時、父の体調がおもわしくなく、近い将来、長女である私が病弱な母を支えることになるだろうと予想できた。
それなら仕事をするよりも、結婚してしっかりした男性がそばにいたほうがよかろうと判断したのです。
大学卒業と同時に結婚しました。
ところが私を待っていたのは、優雅な専業主婦生活どころか、私の愛読書だった320円の雑誌『栄養と料理』が買えないほどの経済的に苦しい生活だったのです。
これには事情があります。夫は自分の給料で妹を私立の大学に通わせていたので、余裕があろうはずがない。
そのうえ、その頃の製鉄所の工場というと、まさに人海戦術の時代、係長といえども大勢の部下がいます。
毎晩のようにとっ替えひっ替え大勢の部下と一緒に帰ってきて、家でご飯を食べさせるわけです。
限りある冷蔵庫の中身で料理を作って、ニッコリ笑ってもてなすのが女房の甲斐性だから、いつもスッテンテンだったんですね。
そんな状態でしたから、私も働くぞと決心し、ピアノ、編み物、英会話、数学を家で教え始めました。
でもね、料理を教えようとは思わなかった。
むしろ「料理を教えるなんて、そんな野暮天しない」と思っていましたから。
なんて不埒な考えだったんでしょうね。
そんな私が料理を教えることになったのは、27歳のとき、夫の同僚のアメリカ人の奥さん、アンと出会ったのがきっかけでした。
夫のために日本料理を作ってみたいというアンに頼まれて、卵焼きや麦とろの作り方を教えているうちに、アメリカンクラブの仲間12人から、毎週一度、英語で料理教室を開いてほしいと頼まれたのです。
私の料理が国際交流にお役に立つのであればと張り切り、引き受けました。
当時、私は3歳、2歳、0歳の子供を抱えていました。
問題は子供の預け先です。
社宅を見回したところ、3人目がまもなく生まれるというピアノの先生がいた。
彼女に白羽の矢を立て、すぐさま交渉に向かったのです。
週一回、教室のあるときに、互いに子供を預け合うことで、すぐに話がまとまりました。
転勤続きの生活を楽しみながら
こうして「アンさんの料理教室」が始まりました。
毎週12人のきれいな外国人女性がそろってうちの社宅にくるので、目立つわけです。
すぐに社宅の奥さんたちからも習いたいという申し出があり、「お安い御用、日本語ならもっと楽だわ」ということになって、輪が広がっていきました。
社宅の奥さんたちとの交流が深まり、村上家の糠漬けがおいしいと言われれば、「いいわよ、あなたたちの分も漬けてあげる」となる。
夕方になると、お漬物のもとになるニンジンやカブを届けてくれて、こちらは、ほどよく漬かった大根やきゅうりを十数軒分に分けて配る。
小さいときから糠漬けは得意中の得意でしたからお手のもの。
しかも一度にたくさん漬けるから、とてもおいしいんです。
こういう具合に、料理がとりもつ縁で、楽しい社宅生活を送ることができました。
食べ物には楽しさを人と分かち合う力がありますね。
このスタイルは転勤先がどこであろうと変わりません。
東京から大分への転勤辞令が下りたら、東京での料理教室はそれでおしまい。
大分では、我が家の夕飯を食べた夫の部下から、「結婚することになった彼女が料理下手なので、教えてください」と頼まれ、1名から教え始めました。
1名を教えれば、その土地を去るときには90名になっているという具合。
私自身も、徐々に料理を教える面白さに魅せられ、一生の仕事にしようと考えるようになりました。
転勤族は、その土地で培った人間関係や慣れた住まいにサヨナラし、新たな場所でゼロから始めることの繰り返しを強いられるわけです。
でも、私はそういう暮らしをむしろ楽しんでいた。
転勤辞令が出ると、張り切って準備にとりかかったものです。
まず、行く先の社宅の間取り図を取り寄せ、今までのレースのカーテンはやめにして、今度はオレンジと紺にしよう、と想像を膨らませる。
そしてミシンでしゃかしゃか縫って持っていく。
いつもそんな調子です。
普段から家の模様替えは大好きです。
夫が会社から帰ってくると「これは僕の家でしたかね」というぐらい造作が変わっていることもしばしばでした。
買ってはみたものの役に立たないものは、「はい、処分」と、私は実に潔いんです。
だから「この家で処分されなかったのは僕だけだ」と夫は笑っています。
転勤先で料理を教えるかたわら、料理コンクールにも片っ端から挑戦。
コンクールに出るからには必ずグランプリを狙い、“グランプリ荒らし”の異名をとった。
「これを作りたい」という気持ちだけでは優勝できない。
自分の好き嫌いではなく、審査員の好みに合わせなければ。
そのための傾向研究と対策に努力を惜しまない。
こうして他流試合にどんどん挑むことで、料理の腕を磨いていった。
私の人生を変えたといってもいいのが、1973年、31歳のときに出た「アーモンド料理コンテスト」での優勝です。
ご褒美にアメリカへの研修旅行がプレゼントされ、雑誌『ミセス』の記者が同行したのがご縁で、仕事をいただくことになりました。
突如として料理研究家への道が開けたのです。
『栄養と料理』の編集長だった岸朝子さんにかわいがっていただいたのもこの頃です。
料理研究家として右肩上がりに仕事が増えていきつつあった真っ只中のこと、ある雑誌に私の記事が出たことで、事情は一転しました。
その記事には、夫の名前ばかりか、社名と肩書きまでもが掲載されていたのです。
夫は、会社のエレベーターでたまたま乗り合わせた取締役の方から「村上君、君のかみさんはご活躍だね」と言われたそうです。
当時の日本の社会構造の中では、特に大組織では、妻が仕事をバリバリしていると夫が揶揄される場合が非常に多かったようです。
夫は出世街道を着実に歩いていた人間でしたので、なおのことでした。
彼は私が仕事をすることを嫌がることはまったくありませんでしたが、私の仕事が原因で社内で揶揄されたことを大変に怒りました。
予想外の出来事に私は戸惑い、知らぬ間に妻としての立場をはみだしつつあることを悟りました。
仕事をやめようか。
そう考えはじめていた矢先、北九州への転勤が決まりました。
私が仕事に真剣に取り組んでいることを知っていた夫は、「君と子供たちは東京に残りなさい。自分は単身赴任をする」と言ってくれましたが、ここは私がひっこもうと決めたのです。 これ以上、私が東京で頑張ると、会社での夫の立場が悪くなりかねない。
家の中のリーダーはあくまで夫。
“夫婦仲良く”が私の信念でしたから、ここは男を立てるのも悪くない。
しかも当時、私自身、体調が芳しくなかったので、角を納める時期だとも判断し、マスコミの仕事はすべて、すっぱりやめました。
35歳の頃でした。
そうと決めたら中途半端が嫌な私です。
料理教室にあるお鍋を全部きれいに磨き上げて、100円セールをして生徒さんたちにお分けしました。
全部整理がついて家を後にするときは、さすがに涙がボロボロこぼれてきました。
慢性骨髄炎との闘いの末に
それから数年間、私の体調は悪くなる一方でした。
40度を超える高熱が出て身体がガタガタ震え、顔がものすごく腫れ上がる。
首から上を切って抱えて歩きたいほどのつらさが続きました。
あちこちの病院で50回ぐらい検査をしましたが、そのたびに原因不明と告げられ、落胆するという繰り返し。
私はもしかしたら、このまま原因不明で死ぬんじゃないかしら・・・と何度考えたことか。
自分が灰になることが心底怖かった。
愛する家族にさえ、私のこの痛みや苦しみはわかってもらえない。
孤独感は募るばかりでした。
運命の名医に出会い、ようやく病名を知ったのが40歳のとき。
慢性骨髄炎でした。昔、親知らずを抜いたときの後始末が悪く、化膿した菌が残っていて、顎の骨のなかの髄がやられていた、というんです。
手術は、歯を抜いてあごの骨を割って化膿している部分を削りとるという、それは凄まじいものでした。
成功するかどうかわからない手術でしたが、「絶対に生きたい」一心で受ける決心をしたのです。
術後、夫がイタリアの生ハムをほんの少し持ってお見舞いにきてくれました。
その強烈な塩気が口の中の傷にしみわたりましたが、とてつもなくおいしい。
噛むことはできないから、ぐっと飲み込むだけでしたが、あの味は生涯、忘れられません。
その日の夜、「生ハムをもっと食べたい」と夫に電話をしたら、タクシーで駆けつけてくれました。
消灯時間が過ぎた暗闇の中で、生ハムを小さく切ってはしみじみと飲み込む。
少しずつ少しずつ死の恐怖が消えていきました。
そして「人は食べることによって生きていける」と痛感したのです。 自宅での料理教室の合間に入退院を繰り返し、8回にわたって18本の歯を抜き、5年がかりの大手術を経て、無事生還しました。
そして、この大病がきっかけで、私の料理に対する考え方が定まることになるのです。
「ちゃんと食べて生きる」という当たり前のことを、多くの人に伝えたい。
そのために、47歳のときに管理栄養士の資格をとりました。
「おいしいものを見せびらかして作る」のではなく、「食は命」ということを伝えるべく使命感に燃えるようになりました。
53歳で東京に料理スタジオを作ったのも、その使命感ゆえです。
上った階段は決して下りない
27歳から料理の仕事を始め、少しずつ階段を上ってきました。
一時、仕事を中段せざるをえなかったことも何度かありますが、上った階段は決して下りなかった。
その階段にとどまり、チャンスの神さまに巡り合うまでそこで待つ。
チャンスの神さまには前髪しかないそうですから、前髪をチャッとすばやくつかみ、すべてのチャンスをものにして、またその上の階段に上ってきた。
そんなふうに思います。
今、私は幸せなことに、希望通りの環境で仕事ができています。
しかし、スタジオを構え、スタッフを抱える以上、稼がなくてはいけません。 「稼ぐ」という言葉は日本ではえげつないと思われ、オブラートでくるみがちですが、私はそうは思いません。
私自身、料理の仕事を奥さんの内職的な仕事にはすまいと思いながらずっとやってきました。 夫の稼ぎをベースに、優雅に料理を教える贅沢な料理研究家の時代は終わったと思っています。
ビジネスにしなければいけない。
経済的な基礎があってはじめて、自分が本当に伝えたいことを自由に伝えられると思うからです。
そのためにはタイミングを外さない、チャンスは逃さない、と常に肝に銘じています。
料理研究家を志すお嬢さんたちが、今、非常に多いのは事実です。
私もよく相談を受けます。
一言でいうなら、そういう思いをもった時点で人生は勝ちいくさ戦です。
ただ、あれもこれもと欲張らずに、ひとつのことを選んで、自分で始められるところから挑戦していくと、勝負はどんどんついていく。
何か見えるものがあるはずです。
そういうエネルギーをずっと持ち続けて、緊張し続けていれば、チャンスは逃さないはずですし、いつか夢は叶うと思います。
私のスタジオにはレシピのファイルが4000冊、数でいうと27万点のレシピのストックがあります。
全部再現できますよ。
といっても、ファイルのままでは紙くず同然。
ファイルからレシピを発信し、皆さんに作っていただき、喜んでもらうことで真価を発揮します。
特に、このファイルを皆さんの「食べ力」を養っていただくために活用したいと考えています。
「食べ力」とは、たくさんの食材の中から何をどれだけ食べればいいのかを見極め、選ぶ力のことです。
昔は親から子へ伝統的に伝えられていたものですが、今この「食べ力」が、若い世代を中心に急激に衰えていると実感しています。
自分の健康は自分で守る時代だからこそ、「食べ力」を養って、健康に生きるために、このファイルを役立てたい。
それが私の願いです。
最後に、定年退職後の夫について少し話しましょうか。
夫は福岡に住んでいます。
ですから、私は毎週末、福岡に帰っていることになっているのですが、このところ仕事の都合で思うように帰れません。
むしろ夫がしばしば上京して経理関係の書類に目を通したり、大事な契約に立ち会ってくれ、いまや「空飛ぶ亭主」となっています。
しかし、万が一、彼の身に何かがあれば、いつでも仕事をすっぱりやめて、さっさと福岡に引きあげる覚悟はできています。
私にとって仕事は自分自身の生きている証ですが、その仕事より大切なのは最愛の夫だときっぱり言いきれますから。